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枚方宿の歴史

文禄提

旧枚方宿は淀川と枚方丘陵の突端万年寺山とのあいだに崖に沿う形で延びている。枚方周辺では古代より人が住み、磐船街道・東高野街道・山根街道などが奈良や京都へと通じている交通の要衝であったが、枚方宿を含む淀川沿いは、海抜20m以下の低湿地で、たびたび洪水にみまわれている淀川の氾濫原であった。古墳時代には茨田の提が築かれ、茨田屯倉が設けられ
るなど、開拓がすすめられている。天下統一を果たした豊臣秀吉は、大坂・淀・伏見に築城するとともに、文禄3年(1594)淀川両岸堤防長さ15,281間の修築をおこなった。これを「文禄提」と呼んでいる。この提により、いくつかのか河跡湖と湿地を残し水田も新しく開かれたが、以後も決壊による洪水が少なくなかった。また秀吉は伏見を中心に水陸の交通路を整備し、文禄提を道路として利用した。

東海道の整備と枚方宿

徳川家康の五街道の整備に伴い、文禄提も整備され京街道となり、東海道の延長とみなされ幹線道路となる。京と大坂のあいだに伏見・淀・枚方・守口の4宿が設けられた。枚方宿では岡新町村北端を東見付、泥町村(現在の堤町)南端を西見付と呼び、その間、13町17間(1447.6m)であった。ほぼ中央の三矢村に本陣、脇本陣、問屋場などの機能を備え、天保14年(1843)には、戸数378戸、人口1549人旅籠69軒、助郷28か村を数える大きな宿場であった。本陣は東海道(京街道)に面して約20間、奥行きが24間程の土地を有し、ここに約200坪の建物が建っていた。現在本陣跡には淀川左岸水防組合事務所が建ち、「歴史街道」の立看板がある脇本陣は、本陣の補助機関として本陣の東側(現在幼児療育園が建っている)に置かれていた。枚方宿には東海道53宿と同様、人足100人、馬100頭の常備が義務づけられていた。問屋役人は、宿各村の有力者がなり、7日間交代で勤めた。枚方宿の囲米(非常救済用)を貯蔵する郷蔵も4か所にあった。

枚方宿の賑わい

参勤交代の制度が確立された後、東海道(京街道)は紀州・泉州の大名の参勤道路とされ、長崎奉行の往来もあってたいそう賑わった。元禄4年(1691)長崎のオランダ商館長の江戸参府に加わったケンペルは、「江戸参府紀行」の中で、大阪から京までの様子を日記に記し、昼食をとった枚方は約500戸の町で、たくさんの旅館や料理屋があり、安価で茶や酒を飲み、暖かい食べ物を食べることができるとしている。街道の賑わいに反して、宿駅の財政は苦しく、助郷の村々も困窮するところが多かった。

枚方宿廃止後の交通

明治5年(1872)伝馬制度廃止により枚方宿も廃止されたが、京都〜大阪の往来には依然として旧街道や淀川が利用されていた。三十石船にかわり蒸気船が出現し、大阪北浜と伏見を結んだ。枚方付近では鍵屋浦と鶴屋浜に船着き場が設けられ、淀川の水運は昭和戦後まで物資輸送に活躍する。
明治9年(1876)に京都〜大阪間の鉄道が淀川右岸に開通したが、対岸との行き来は、枚方大橋の完成(昭和5年)まで渡し舟しかなく、枚方では交通の不便さからそれまでの賑わいは一時影をひそめた。明治43年(1910)に京阪電気鉄道株式会社が大阪天満橋と京都五条に電車を開通させ、枚方が大阪の衛星都市として発展する土台を築き、警察署・裁判所・郡役所なども枚方に設置され、北河内の行政の中心としての役割を担った。

 

枚方宿の歴史

1900年頃の枚方宿

「万年寺山」

「万年寺山」
中央に本陣、その左右に西御坊、東御坊が見える。

「天川」

「天川」
切妻・平入りの町家が並んでいるのがよくわかる。ほとんどが瓦葺きで、茅葺きの家は少ない。

「枚方駅」

「枚方駅」
裏手には川に張り出した座敷が設けられていた。淀川に面して表の東海道(京街道)沿いとは異なった町なみを形づくっていた。

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